存在するだけで価値がある
生産性が低くても
役に立たなくても
かっこよくなくても
血のつながりがなくても
コミュニケーションできなくても
存在するだけで価値がある
「私」は 「手段」 ではない
「目的」だから。
わたし が 足りないのではない
わたし が 未熟なのではない
わたし が 悪いのではない
逆さまだ。
認められていないなら、
その社会がまだ未熟なだけなのだ
この世界は"誰もが 存在するだけで価値がある"社会だろうか?
"誰もが 存在するだけで価値がある" って、とってもいいことですよね。
きっと誰もが賛同してくれると思う。
でも同時に、でもそれって理想であって、本気でそうしようとは思ってないのではないだろうか?
この世界は"誰もが 存在するだけで価値がある"社会だろうか?
いや
生産性が無いとダメな社会で、人権を守るのはお情けでできる範囲
それが現代ではないか?
ナチスは
ユダヤ人や同性愛者や障がい者をガス室に送った。
優生学が背景にあった。
優生学的な観点は今でもその辺にごろごしている。
優秀さ、能力が高い、健常/健康/ふつう・・・
(優秀な者。優秀というモノサシをつくり。それに合致する者)
貧富の差が増大し、持てるものはさらに金で金を増やしやすく、持たざるものはエッセンシャルに働かざるを得ず、ロボやAIに仕事を奪われそう。
(持てる者は優秀というモノサシにあった者にもなりやすくなる。教育しかり。)
これは不平等な階級社会そのもの。行き過ぎた資本主義(新自由主義)。
今こそ社会の変わり時・変われる時
しかし今、生産性は上がった。生産性アップ&経済成長を続けるのではなく、誰もに富を行きわたらせて生産性アップゲームからの解放を宣言する時代ではないか? Web3~DAO(分散型自律組織) など萌芽もある。
AIもロボットも、生産性アップよりも、支配(資本主義)からの解放(依存しない)のために役立てるという風に、目的を再考した方がいいのではないか?
そして時代は今VUCA(先がどうなるかわからない世界)。
(AI もこの先どうなるか想像を超えている。このページの画像は表を除いてすべてAIとの共同制作だし。)
何が起こるかわからない、こんな時こそ大事なのは多様性。
何が起こるかわからない、こんな時こそ大事なのは多様性。
社会そのものがVUCAに備え、持続可能性を高めるには、レジリエンスを高め、新陳代謝を活発にし、多様性を包摂することが大切である。
未知な環境には何が活かせるかわからない。
だからこそ、生産性だけでないさまざまなモノサシに意味がある。
実際、統合失調症的な個性も狩猟時代には最も重宝されていたという説(中井久夫)もある。彼らは今に意識を持ち、過去よりも未来への予感へのアンテナが鋭い。
アート性や文系の好奇心もそうだろう。
生産性の視点からはないがしろにされてきた。
さまざまな表現が生まれる可能性がある。
さまざまに必要な個性が、これまでも出現されてきたし、今も出現している。
多様性こそ社会性であり、人類の強み
そもそも社会とは、人類の社会とは、そうしてきたのではなかったか。
社会性を高めることで、集団として持続してきたのではなかったか。
統合失調的な人も、偏執的な人も、障がい者も、同性愛者も、老若男女も、病人も、様々な個性を、未知なものも含めて、受け入れ、
それをこそ「強度」としてきたのではなかったか。
しかし、これもまた功利的な見方。
功利性はあくまで存在を肯定する経済的な理由の材料の一つだということにすぎない。
無条件に ”存在そのもの” に価値がある
大事なのは、”無条件に” ”存在そのもの” に価値があるという見方だ。
(価値のあるなしに関わらず大切だ。意味がある。肯定される。)
お情けのノーマリゼーションではなく、ノーマリゼーションありき。それゆえの豊かさへ
(ノーマリゼーション:障害者も、健常者と同様の生活が出来る様に支援するべき、という考え方)
と言ってもいい。ノーマリゼーション こそが最も大事だということ。
今価値を見出している
生産性とかクリエイティビティ以外に目を向けること。
ジャッジしないで アンラーンして
価値を判断しないで 保留しながら
全てをギフトとして サインとして 受け取ってみること
「カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム」
アイヌ語で「天から役目なしに降ろされたものはひとつもない」
ゴールデンカムイ
それは自分自身(の内なる未知なる多様多彩な自分)に対してもだし
他者に対しても
(未知なるさまざまな人や文化や個性や障がいや境遇や病や
技術や科学やアートやできごとや場所や未来や
(量子技術やAIやBrainMachineInterfaceやDecentralized Autonomous
Organizationや瞑想や不食やドラッグや宇宙人や高次元やソラリス(レム)
想像を超えるあらゆる未知なるものに対してだろう
未知 は 可能性であり 恐れでもある
私たちは まだまだ何も知らないし
知れば知るほど 未知は増えて当たり前なのだ
(大きくなればなるほど円周は大きくなる)
ジャッジしないということは
パワーゲーム・コントロール・支配 もしないということ
対話が大事 (パウロ・フレイレ)
「世界と対峙することを恐れないこと、世界で起こっていることに耳を澄ますことを恐れないこと、世界で表面的に生起していることのばけの皮を剥ぐことを恐れないこと。人々と出会うことを恐れないこと。対話することを恐れないこと。対話によって双方がより成長することができること。自分が歴史を動かしていると考えたり、人間を支配できると考えたり、あるいは逆の意味で自分こそが抑圧されている人たちの解放者になれる、と考えたりしないこと。」
(ヒューマニゼーション:抑圧する側の人間も「非人間化」が進んでいて、抑圧される側も双方が対話によって「人間化」していくことを目指す)
ほんとうの「人間」になるための教育〜パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む
パウロ・フレイレ
一方
人にとって 未知 は 可能性である とともに 恐怖でもある。
それは他者との出逢いにも似ている。
今の自分を失ってしまうかもしれない恐れ。
しかしそれを受けいれ、それに開くならば、
可能性の扉が開き 変容が起こり 全体性を一部回復するだろう。
🌟左上・意識的な自己は「開かれた自己」。自分も他者も知っている。しかしそれは小さく狭い。心地よいコンフォートゾーン。
🌟左下・自分は知っているが他者は知らない「秘密の自己」を開示していくと。他者も自己を開いてくれるようになる。自己開示には恐れを超える必要があるが、未知が開き、世界は広がる。可能性も広がる。
🌟右上・自分は知らないが他者は知っている「見えない自己」。盲点になっている恥ずかしさもある自己。関係性を育みフィードバックを得ることで回復できる。
🌟右下・自分も他者も知らない「未知の自己」。コントロールはある程度できるが未知なのが、自分の体だったりもする。無意識もそう。そして「他者」。自己開示+フィードバック*好奇心&チャレンジ!がカギ!
💖個を社会にあてはめれば、未知・多様性を受け入れる器を広げることにも通ずるだろう。
全体性を取り戻しさらに拡張する
または 1 または ゼロ∞ になる
多様多彩な未知に触れ 時には統合して
私は 私たちは 豊かになる 全体性を取り戻す
そのプロセスに終わりはない(またはワンネス・ホールネスに一体化する)
Wholeness(全体性)Heal(癒し)Holy(聖性)の語源は
同じ古ゲルマン語の「hailaz」(健康、完全、全体)に由来するそうです
未知なるものに開き(それは恐れも伴いますが それにもよりそって)
その声に耳を澄まし
(プロセスの中で)一つであることを自覚すること
それが 健康 に通じてもいるのでしょう(^ ^)
(個人にとっても 社会にとっても)
あらゆる未知も
マイナスも忌まわしきものも
プラスも寿ぎも
祝福。
未知は 神性のあらわれ ともいえるだろう
わたし(たち)自身がそうであることに降参しよう
「百丈の竿頭に上って、足を放たば死ぬべしと思うて、つよくとりつく心のあるなり」
「百丈の竿頭(かんとう)すべからく歩を進むべし」
百丈は約30メートル、その高さの竿の先にしがみついてる手を放し、一歩進みだすこと。
禅のことば 道元「正法眼蔵随聞記」
コミュニティとは "存在するだけで価値がある"場
そしてそれ「"存在するだけで価値がある"」
を体現した私・社会であろう
コミュニティとは、そういう場,、
"存在するだけで価値がある"場 だということでもある。
功利的なゲゼルシャフト・マーケットではなく(それはそれで大事)
存在だけで肯定されるゲマインシャフト。
それゆえに、そこでは互いへのリスペクトが大切。
対話が大切。
開かれていることが大切。そしてルールは最低限。
「情報の透明性と、意思決定の流動性と、この境目の開放性というこの3つが高ければ高いほど人間関係が良くなるんですよね。勝手に。人間関係良くなっていくと、自然と健全な営みが生まれる。~ これ違う言葉で言うと透明性、流動性、開放性というのは自律分散っていう形と、それから循環という流れと、重なり合いって僕が呼んでいるんですけど、この3要素で、これ反対の言葉で言うとすごいわかりやすくて、自立分散の反転は中央集権で、循環の反対は搾取収奪。一方通行ですね。重なり合いの反対は分断。この分断とか中央集権とか一方通行とかって、今の 資本主義って全部それじゃんみたいな。だから、ここら辺を真逆にデザインをしていきたいなぁ と思っていてでもこれってホント自然の摂理そのものなんで、持続可能性そのものなんですよね。」武井浩三さん
生きることの本質サロン(仮称)「教えて!たけちゃん」組織論の神に聞くコミュニティの作り方
人を手段にしないこと。
往々にして目的は手段と入れ替わり、手段が目的となりがち。
市場も"存在するだけで価値がある"環境を成り立たせるための手段。
人口問題と"存在するだけで価値がある"
さらにここで背景としての人口問題も扱うなら。
より多数が生き延びるためには、少数の死はしょうがない という時代があった。産業革命で生産性が上がって人口増大80億に、そして高齢化も。という現在。上がった生産性で80億が生き続けるのは持続可能なのか?
地球的に持続可能な人口規模と平均寿命とエコロジカルフットプリントはどのくらいか?
chatGPT によると、15~30億人らしい。だけどこのままだと100億人は越すらしい。
それに向けての人口減少はどのように?
いや待て。少子化で日本は人口減少だ。
そう。日本は以前(90年代より前 新自由主義以前)は一億総中流で富がある程度分散された。だから少子化になり、人口増が減に変わった。
大事なのは富や豊かさの分散と安心。
人口増の原因は貧困なのだから。
人口増は貧困ゆえ。先行きの見えなさから、たくさん子をつくっておくというリスク対策と、一人当たりの生育コストが人数が増えるほど小さくなるという経済的理由。
ここでも、貧富の差を小さくすることが、人口減少に結びつく。将来不安を小さくすること。競争を小さくすること。かといって悪しき平等よりも適度な競争が望ましい(収入差は10倍以内がよいらしい(公共善エコノミー))
誰もが 存在するだけで価値がある日本
ならば先行プロトタイプしたらいいじゃん。
chatGPT によると日本の持続可能な人口は 6~8000万人。
しかし日本はフットプリントが高い(約4-5)から 2000万人くらいかな?
誰もが 存在するだけで価値がある日本
お情けのノーマリゼーションではなくノーマリゼーションゆえの豊かな日本
引きこもりもLGBTQも異能もマイノリティありき
ある程度外国人も入れつつ(ただし覚悟を持って)、ロボットやAIを有効活用して担い手を補完。
エッセンシャルワークを優遇。
医療は予防に注力して、健康優先・well-Beingありき。病対策もやるけど。
食糧自給率をあげる。環境保全型の農業や土木(土中環境含む)
自然の力を活かす、自然栽培や自然農法。菌。
生態系の動的ネットワーク
再生可能な自然エネルギー
省エネ
足るを知る 文化、美学
(アメリカからの)脱属国。
草の根民主主義。直接民主主義
自律分散協調型の エネルギー・食・情報・力・学び・・・
・・・
日本人みなが少しづつ田畑(ダーチャ)を持ち漁をし、ITも操り、表現や発信をし、歌い踊りセッションをするみたいな。
選択肢は多様で、好きなものを選ぶ。選ばなくてもいい。
ベーシックインカムは 存在価値のためにも贈られる。
他国から奪わずに。
想像界やシャーマニックな世界や目に見えない世界も含んだ生と死のコスモロジー。
同時に、何割かが複数の国に属し、地球全体に関わる地球人としてみなが生きている
・・・
持続可能でレジリエンスがあり
自己治癒力にすぐれ・・・
改めて。
上記の政策も結局は手段であって、ありきは関係性のあり方。
対話や相互へのリスペクトが大事。
それがあれば、そういうコミュニティへの意図・意志があれば大丈夫。
つまり、
"誰もが 存在するだけで価値がある" 社会は
"誰もが 存在するだけで価値がある ように
お互いを扱う"
ことから始まるのだ。
"誰もが 存在するだけで価値がある ようにお互いを扱う"
そんな あり方(そんな場・コミュニティ)から、
結果的に、副次的に、
持続可能であり、リ・ジェネラティブであり、楽しく、レジリエンスあり、美しくもある、ことにプロセスされる。
(個人の内面も、分人によるコミュニティと捉えてもいいよね💖)
そして気づく。場は、もともとあるのではなく、私たちが創るのだと。創発して生成されるものだと。与えられるものではなく。
時間もそうだ。クロノス(客観的時間)などなく、カイロス(主観的時間)の相互作用による生成だ。
世界とはそういうセッションであり、イマココで生まれているライブ。いのちだ。
存在そのものが価値、贈りもの。
存在そのものが価値、贈りもの。だから プレッシャーも罪悪感も義務もジャッジも要らない。ただ感謝と祝福があればいい もちろんそれ(感謝や祝福)も自由で 存在のあり方や表現も自由 ただあなたがしたいようにしてもしなくてもいい。
あなたの魂のよろこぶように(たましいはワンネスだから利己は喜ばない)