待つ 豊かさに ついて 考えてみました(^ ^)
(思ってた以上に長くなってしまったけれど面白いプロセスでした💖)
加速主義な時代
速い方が生産性が高い! っていう加速主義
世の中は、Z世代を中心に、コスパ(コストパフォーマンス、コスト当たりの生産性)、タイパ(タイムパフォーマンス、時間当たりの生産性)が重視されているそうです。
コスパ、タイパ、、、
でも時代自体がそうですよね。
まさに加速主義。速い方が勝つ。儲かる。価値がある。偉い!
世界はそれで便利になった 豊かになった
遠くへも行けるし 遠くのものが手に入るようにもなった
いろんなことがたくさん短い期間・時間でできるようになった
いろんなものがたくさん作られた
道も建物も機械も商品も
世界はモノであふれている
浸け置き洗い
急ぐことの功罪というかバカバカしさを最も感じるのが洗い物。
我が家では自分が主に洗い物担当なんですが、うちは洗剤なしが久しい次第。お湯とアクリルたわしで充分です。それはさておき
お皿とか、水につけておけばコメのこびりつきとか大概溶けます。
油もたわしでとれるし。
でもきっとこれを洗剤でゴシゴシしたりするのかな?
速く為すために。
結果、時間を速くするために、無駄な薬品使用と、無駄なゴシゴシが発生。
世界が急げば気温も上がる。
同様に、生産性を上げる競争の結果、世界は生産性が上がり、
そのためにはエネルギーも使います
発電、発熱、生産、加工、輸送、情報処理、、
当然気温も上がっています。
二酸化炭素がどうとかいうよりとっても簡単な話ですよね
まさに気候変動。
もちろんコンピュータによる最適化で
がむしゃらさは減っているでしょうが
最適化という情報処理にもエネルギーは消費されますので
温度は上がります。
( AI に画像を作る言葉をあげていたら
Global busyness causes climate change
グローバルな"多忙さ"が気候変動を起こしている
まさに グローバル"ビジネス"が気候変動を起こしている でした)
気候変動はもちろん問題だけれど(今が正念場!)
さらなる問題はメンタルです。
常に急いでいる 今にいない
自分自身もそうです
時間に追われ、Youtubeを1.5倍で観てる。
待つことが じれったい 無駄を感じる
満たされている というよりは 足りてない感
もっとできるのでは? という不足感 罪悪感
そして時間に追われていることで
いろんなものを犠牲にしている
自分を大切にしない
家族を大切にしない
生きものを大切にしない
ひとを大切にしない
お金にならないことに時間をかけない
時は金なり
そう 時短は、お金に密接に結びついています
タイムイズマネー
節約した時間でもっと稼げる
または 稼げるはずの自分を肯定できる
時短はお金と等価 と認識されているのかもしれません
お金にならないものは価値がない
しかしそれは逆に
稼げない自分、稼がない家族、稼げない人、稼げない生命
の価値・大切さを見ないことに繋がります
お金になる(特に すぐに 明確に わかりやすく 論理的に)
ものと
お金になる と示しづらいもの が世界にはあります
お金にならないもの もあるかな
そしてお金になる と示しづらいもの&お金にならないもの
にこそ大切なものがたくさんあります
そんなこと 知ってる と言われそうですが
愛とか
でも実際、
愛とか(愛を示すとか、言葉にするとか、、)
たわいのない話をする とか
なにげない美しいものに目をやるとか
が
ないがしろにもされていますよね
それって やっぱり ハート とか たましい 的には
ボディブローのように効いてます
(意識して大切にする必要もあるでしょう)
魂はスピードに置いていかれ、虚しさが増える。
昔、汽車ができた時、
たましい が置いていかれるよ
と昔の人は言ったそうです(ネイティブアメリカンだったかな?)。
人間の身体は、歩く走るの環境の中で進化してきました。
車や汽車や飛行機や、バーチャルな移動に対応して
変わるのには時間がかかります
これはストレスとしてどこかに負荷がかかっていることは間違いないでしょう
さらにバーチャル化
主に視覚優位で現在進んでいるメタバース的な方向
これは否定できませんが
心身にアンバランスな部分があることは自覚が必要でしょう
いろいろ負荷がかかってると思います
ケアは必要だが
メンタルもボディもケアが必要です
放っておけば病気となって現れます
自己免疫性疾患とか難病とかアレルギーとか
意味不明の病気が増えているのは
そういうところにもあるのではと思います。
日々、自分や世界を大切にする こと
これにつきます。
が、これも対症療法といえば対症療法です。
時間戦争:生産性向上という戦時下
喜ぶはシステムのみ
ところで上がった生産性の恩恵はどこに行くのか?
今のところ、世界の豊かさの底上げと
富の偏在
です。
一応、~ドル以下の生活者が減っている
みたいな統計があって、それによれば豊かさの底上げは起きていることになっている
(ただし貨幣経済に組み込まれることでその文化のお金にならない豊ささがどれだけ失われたのかはわからない)
しかし、それ以上に、富・豊かさの偏在が問題で
イギリスのNGOオックスファムの発表では
「世界の最富裕層2153人、最貧困層46億人よりも多くの財産を保有」
だったりする。
日本も格差社会で
ピケティの言う通り
( r>g 資産運用により得られる富は、労働によって得られる富よりも成長が早い)
富のあるところは 富が富を生む
(たとえば働かなくても投資ファンドで自動的に年率10%とかで増えていく)
富のないところは 働いても働いても 貧しいまま
競争下で給料は上がらない
みたいに
二極化している。
生産性を上げないと!
という生産性戦争の渦中で
労働者という兵士は日々
闘って 時短し コスパタイパしている
しかしその果実は
富裕層に流れていくだけ
そして富裕層も別に悪意や欲望のみではない
投資判断においてはやはり可視化できるものが優先される
可視化できないものはないがしろにされてしまう
環境や生態系や苦しみや悲しみや分断や痛みや将来のリスクは
被害や事故や災害として可視化されるまではなかなか意識化されない
そしてお金もあればあったで失う恐怖もあったりする
もちろん無いよりあった方がいいが
あるないで振り回されているうちは
同様にこの時間戦争に巻き込まれていると言わざるを得ない
結局のところ この時間戦争・加速主義においては
可視化できるもの
エビデンス(証拠データ)の出せるもの
に価値を見出し
(ストーリーとして可視化することも含む)
それに投資するなどコントロール・操作して育てる
「資本」が喜ぶことになる。
イメージ的には 数字。データ。
数字が自己増殖している感じ。
個人資本もあるし企業やファンドもある。
それは人により構成されるが特定個人というよりは
法や組織関係やコンピュータプログラムも含む
つくられた仕組み・システムだ。
時間戦争 においては データ・数字 が最も速い。
そこでは 人間を含む アナログなものはついていけない
人間もムーアの法則のような倍々速度に憧れる
サイボーグ009の加速装置~トランスヒューマン
さらにシンギュラリティでデータになりたくなってもいるわけだ。
(内閣府のムーンショットにも書いてある)
しかしそれは人間ではない者だろう。
これでいいのか?
これは別に陰謀とかというよりは
摂理 みたいなもので
データ化(可視化)を優先してるからそうなっちゃってる
ということなので
見えないものやコトも大事だよね ってことを再確認して
そういう社会やシステムに変える努力が必要 ということ。
左脳だけじゃなく 右脳もね みたいな。
大事なのは この 主役は 私たち 人類 だということ。
それにはまず 気づくこと
時間戦争の主体は人間 だから やめられる
この時間戦争を 続けているのは あくまで人間だということ
ディズニー映画の古典「ファンタジア」
魔法使いの弟子のミッキーマウス。
魔法使いに命ぜられた水汲み。
箒に魔法をかけて 自分の代わりに水汲みをさせます
生産性を上げるため 箒が自分をコピーできるように魔法をかけて…
箒はどんどん増えます
居眠りして起きると館は水浸し
でも解き方がわからない
現代に似てますよね
でも魔法は 魔法にかかっていることに気づけば解けます。
まず 自分から 解くこと。
魔法にかかっていることに気づけば解ける
今年、年が明けて、
ふっきれた感がありました。
時間を手放した感というか。
無自覚の内に速くやろうとしてるな
追われている感覚があるな
速くやることで 自分に価値を感じてるな
でも 豊かになってるかな?
質的に
時計を手放す
2022年のゴールデンウィークのリトリートで
時計とスマホを2泊3日手放す
を体験しました。
とっても時間が 濃密で豊かな 体験 になりました。
今にいることに浸れる
今にいられる
待つことを味わえる
待ってもらうことが苦しくない
沈黙 が 苦でない
いること あること が 認められてる
そんな時空でした
ちなみに
マヤ暦の大晦日は
「時間を外した日」
です。
なんかワクワクしますよね?
時間をプレゼントする
まずは小さな時間を自分にプレゼントしてみること。
3分でもいい。
ゆったりと 時間を感じてみる事
その時の自分を感じてみる事
自分の反応を味わってみる事
今 を味わってみる事
今を
自分を
起きていることを
大切にしてみること
「プレゼント」 は 「今」 という意味もあります
「プレゼンス」 は 「存在」 です
おもしろいですよね!
待つ という 豊かさ 脱コントロール
改めて
考えてみると 感じてみると 気づいてみると
「待つ」って
すごく深い行為かもしれません
自分のコントロールできないもの/してはいけないもの を
待つ
季節や 子の成長や 待ち人や 果実や 幸運 を 待つ
時には 人事を尽くして 待つ
現代は コントロール を強めてきた 広げてきた
野菜の旬も 出産も 成長も
土壌や 気候も
最近は 自己の変容 や 企業の変容や 発達も
いろんなものをコントロールしてきた
管理してきた
けれど結果的には、
管理コントロールできるものばかりの世界になってきてしまった
つまんなくなってきた 息苦しくなってきた いのちが
いったん コントロールを手放してみる
時間に追われず
今に いてみると
今を 大切にしてみると
尊在してみると
今ここに起こること
生きていること
生かされていること
を
待っている
待っていて それとセッションしている
ライブだ!
コントロールから生成へ
待つことは ライブだ!
待つことは
過ぎる時間をやり過ごすことではなく
今をセッションしている
通じ合いながら
自身や世界(そこに境界はない)
を観ている感じ
それを愉しんでいる感じ 三昧感 止観?
生きる とは 生成プロセス
春から夏へ秋へ冬へそして春へ
自己生成転換しながら変容し続けているプロセス
おのずから移り変わりしていく流れ フロー
そこに実際に境界は無い
そのプロセスに寄り添っている感覚
やさしく 愛の場 肯定
その変容を見守るのが「待つ」
水面下ではライブでつながっている 一つである感覚もある
その 信頼というか ワンネス
そこに 現れてくる ものを
見守っている 愉しんでいる よろこんでいる
生き 生かされている
とっても 豊か な 感覚
質的に フラクタル*ライブ みたいな
健全だ
その時 コントロールは無い
あるとすれば コントロールを手放すこと がある
結果的にはそれが最速 かもしれない
面白いことに 逆説的には
待つことこそが最速かもしれない
禅みたいな 道(タオ)みたいなことだけれど
あれこれ いじくる 操作する ことで
一見 目に見える部分で結果が出ても
それには反作用もあって
大きな観点からは必ずしも健全ではないことは多い
化学肥料・農薬の緑の革命 の功罪(土壌~生態系 農の破壊)
みたいな
人だってそうだ
目に見える部分を操作することで
目に見えない部分がないがしろにされれば
長期的には健やかではない
そういったコントロール・操作・支配 を手放すことで
おのずから起こるプロセスを阻害しない
待つ
自然な 内発的な プロセスを信頼し 見守り 待つ
これが結果的には最も健やかであり
無駄なことがないので
最速な時短 だったりするのだろう
そのためには 器うつわ
この
自然な 内発的な プロセスを信頼し 見守り 待つ
には
自然(じねん)生成場
みたいな あたたかい 余裕のある 場 というか 器
がセットだろう
なすべきことは コントロールではなく
それを手放し
そういう見守り、待つ場「器」をこそ作ることだろう
自己においても (自己対話やよりそいや自己内紛争からの生成の場・器)
企業においても (対話やよりそいや紛争からの生成の場・器)
社会においても (対話やよりそいや紛争からの生成の場・器)
生成 を 待ち 見守る 場・器
フローを活性化する場・器
未知やワンダーを歓迎する場・器
スロー・スピードを超えて
たぶん
速すぎる時間を ゆっくりにする
というよりは
時間を外す
ことが大事なのだろうと思います。
ゆっくりになる こと
それはスタートで
そこからここまで書いてきたような
気づきが得られます
暮らしも 教育も 政治も
成長も セックスも コミュニケーションも
ファスト になることで
本当の 質的な
豊かさ 美しさ 味わい
を失い
たましいを置いてきぼりにしてきた
スローになることで
取り戻せることは多くある
スローライフ 辻さん や ナマケモノ倶楽部 の活動で
わかった気にはなっていた
しかし気づいてみれば
スローになるというスピードが大事なのではなく
スピードや時間から
解き放たれること
が大事なんですね
改めて「スロー」の深さにありがとうございます
マトリックスのラストが好きなのは
超速になるというより時間を超えるというところ
だし
直線的な時間
循環的な時間
そして生成的な時間
仏教やミンデルらのメタスキルやマーシャルのNVCとか河合さんや…
いろんな方の教えにあることも
自己をいかにコントロールするかというよりは
コントロールをいかに手放すか
という叡智な気もします
改めて 先人に感謝です
(まだまだ深いのでしょうが))
おまけ
コントロールへの執着という現代的な病は問題だけれど
それは過剰だからであって
コントロールそのものは悪でもないし
それもまた手段
可視化もそれ自体は大丈夫で
ただ、あまりにそこが偏重されているアンバランスが問題
視覚 だけでなく
身体感覚や 目に見えない感覚や
客観的でない 主観 や
そういうところの大事さを見直そう
センターをバランスしよう
ってことです。
豊かさの変容
昔は 豊かさ は ただ感謝するもの だった
豊かさを貯蔵できるようになって
豊かさは どれだけ 所有できるか
どれだけ 消費できるか
どれだけ 蕩尽できるか
になった
そして今はさらに
豊かさは どれだけの速さで生産できるか になっている
しかしそれは豊かさ生産機械としての性能であって
豊かさを享受する主体とは分断されてしまっている
今 改めて 私たちは
豊かさ の ライブな生成フロー そのものとしての自ら
というアイデンティティを取り戻そう
春夏秋冬のシームレスな生成プロセスとして
自らが内側から
目覚め芽吹き花咲き歌い踊り実り祝い歓び産み眠り~
という いのちの流れ として
同時にそれを待ち見守る視点ももちつつ
コントロールに執着しない
豊かさとは 器を流れる いのちの元氣さ
(コントロールはその自然さを妨げてしまいがち)
つながったひとつの大きないのちの
さまざまな現われとしての元氣さ
これを前提とした文明とはどういうものでしょうね?
自然のスピードや
自然(じねん おのずから)の生成を待てる文化
暮らしも 教育も 政治も
成長も セックスも コミュニケーションも
シェアや 所有より流れ巡り重視や
ライブなつながり・深い対話重視や
(ハートマスのコヒーレンスみたいな形で
生命の元気さ・フローさを数値化して
脱コントロールな元気さを 可視化するとか?
しかしこれも何かをないがしろにしてしまいそうです)
待つ という 器として 豊かさ を 味わい楽しみましょう
地球丸ごと その器として
ライブでフローな 惑星的なセッションを💖