「私たちは、聖なる尊い大切な存在である」ということ。
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自分自身を、わたし達自身を
聖なる 尊い 神秘なる 自由で 豊かで ワンダーで
宇宙的で 野生的で 時空を超えていて
遊び と エネルギー と 驚き と 魔法 に満ちて
自(おのず)から調和し 超越し 新生していく
そんな存在(尊在・尊財)として
愛し 大切にし 祝福し 尊重し 扱い 手放して 活かし 生かして
生きる💖∞
そこに 自己卑下や 恐れやへんな謙遜や 無力感や 過剰な心配やは
不要。
ただ、自身を 大切に 尊重し 自信をもって 扱う。だけでいい。
何も追い求めなくても
何も追いかけなくても
何も達成しなくても
そもそも OK!
(もちろんしてもよい。
しなければならないなんてことがないということ。)
(ものすごい(超)能力なんてなくても、生きているだけですでに超かけがえのない奇跡だということを想いだそう)
誰かのレールは降りていい のだ
自らのワクワクする道をゆくならば追い風が吹く(福)でしょう
「私たちは、聖なる尊い存在」なのに
そう扱ってこなかった
わたし(わたしたち)は
潜在的には
多彩な能力も、未知の力も あるし 助けを求めることもできる
なのに
ただそれを
してないだけ 使ってないだけ あることにしてないだけ
できない とか
できないかも とか
笑われるかも とか
批判されるかも とか
仲間外れにされるかも とか
・・・
で やらないだけ
自分を
自分の 想いを
自分の 欲を
自分の 願いを
自分の チカラを
大切にしてあげて
それを育めば やれば 続ければ
いい だけ
なのに それをこそ 後回しにしている(お楽しみのように)
(~かも の恐れには
その声の底 にあるものに向き合い
耳を澄ませ 話を聞き
~かもの声そのものになってみること
それこそが 恐れこそが
変容のチャンス。
それもまたギフトになる )
わきいでる(ゆっくりでいい)
生きたい 行きたい 衝動
その方向を 見すえ
自分の足で大地に立ち
大地を踏みしめ
その足を踏み出し
乗り越えたり
迂回もしたり
飛んだり跳ねたり
楽しみながら
向かう
だけ
そこで出会う
怒り や 諍い や 挫折 や・・・
それもまた 気づき の ギフト
自身を深め 大きくする 滋養 味わい
楽しきかな
( 年末 ガンとなった親との会話の中で
世話になっている周囲に対して
自分にとっては なんて恩知らずなことを言うんだ! 的な内容があり
怒りが湧き起りました が
それは 自分自身の 恩知らずさ だと
後で 気が付きました。感謝 )
わたし から 他者 へ そして 世界を 大切に
わたしの
からだ を 大切にし
心 を 大切にし
大地や空気や水や生命 を大切にし
関係や文化やシステムを 大切にし
愛し
感謝し
祝福し
参加する
わたしを大切にすれば(愛すれば)
他者にそれを求める必要はない
だから
他者の
からだ も 大切にし
心 も 大切にし
大地や空気や水や生命 を大切にし
関係や文化やシステムを 大切にし
愛し
感謝し
祝福し
関係することができる
わたしたち も また そう
地球 を 大切にし
こころたち を 大切にし
大地や空気や水や生命 を大切にし
関係や文化やシステムを 大切にし
感謝し
祝福し
参加しあう
ことができる
今というタイミング
そして今 わたしたちは
大きな 節目にも生きている
個々に闘いを取り戻し、戦争を無くせる
グローバル経済をフェアに変えられる
エネルギーはすべて再生可能な自然エネルギー以上に変え&減らせる
生態系の破壊からリジェネレーションに変えられる
Society5.0とか以前の Human5.0 に変えられる
文化のスピードを味わい深く変えられる
私たち自身の心身をもっと健康に変えられる
私たち自身の内なる空虚を豊かさに変えられる
そんな時代に生きている
技術というよりは意識変化によって
できる できない ではなく
やるか やらないか
そんな時代。
お預かりした この命
使ってなんぼな この命
踊らにゃそんそん この命
でも やらなくてはならないことはない
やってもいい どうやってもいい
それは自由だ
まず わたしを大切に
「聖なる存在として」あつかうこと。
例えば、毎朝30分でも、3分でも、
自身(身心霊とか)や
"今" や "今の自身"
を大切に想い労い抱きしめ感謝し祝福する時間をもつこと。
そこから湧きいでる
人類をもまた大切に
「聖なる存在として」あつかうこと。
例えば、毎朝30分でも、3分でも、
私たち自身(人類~生態系~宇宙とか)"今" や "今の私たち自身"
を大切に想い労い抱きしめ感謝し祝福する時間をもつこと。
そこから湧きいでる
私→他者→世界 へ たいせつ が いのち が 広がる。