ここ北海道では12/2 から雪景色となってきました。
アドヴェント(キリスト教西方教会において、イエス・キリストの降誕を待ち望む期間)の季節ですね。
もやもやを感じとる
ここ何日かなんだかもやもやしている自分がいました
「自分のせいじゃない」
いいわけをしたり
「のけものにされてる」
被害妄想になってみたり
「たいせつにされてない」
たいせつにしてほしいニーズがあったり
「このままじゃまずい」
不安になったり
・・・
裏返せば
認められたい
必要とされたい
価値があると言って欲しい
大丈夫だと言って欲しい
という想いがありました
そこには
能力がないから
必要とされていないから
価値がないから
私はダメ
という
しこりのようなものがあって
よく取り組んでいることであり
取り組み続けてきたことでもあるのですが
改めて
からだで、こころで、
これを感じることに集中しました。
肩に力が入っていたり
おなかがキュッとしていたり
さみしさがあったり・・・
感じよう
感じてみる
感じる
・・・
そして海の底につきました
能力もないし
価値も無いし
ひとりぼっちだし
寒い
自分が自分に抱きかかえられました
(そのようにからだが動きました)
その枠から出る
ふと
このさらなる底にあるのはどんな感覚だろう?
と、思いました。
あれ?
認められる必要なんてないじゃん
価値のあるなしとか関係ないじゃん
っていうモードに急に切り替わりました。
あれ?
「いる」だけで
わたしがわたしで「ある」だけで
いいんだ
それは「無条件」のOKだ!
っていうモードになりました。
条件のまな板に乗る必要さえない
なんていうか、思い悩むのが
バカらしくなったみたいな感じで。
からだの真ん中に大きな通路ができて
そこをいのちのフローが流れているような
なんだか不思議な感覚です。
存在だけで価値がある
頭ではわかっているつもりでも
なかなか身体化されていない感覚が
通った感じです。
祝💖! わたし! \(^o^)/
その枠から出て うまれたような(^ ^)
起こってくる感情やできごとは
やはり「ギフト」なんだな
と改めて思いました。
あるだけで、存在だけで OK
あるだけで、存在だけで OK
なのに
それに気づかないで
足りない とか
未熟だ とか
未進化 だとか
そういう解釈・判断・ジャッジで
自分に成長や努力や進化を、上からいろいろ強いることで
どれだけの可能性がつぶされていることだろう
個人の中だけではない。
社会としてもそうかもしれない。
成長や努力や進化はもちろん素晴らしいのだけれど
それは強いられるものではなくて
おのずから 自発的に 自動的に 内発的に
湧いてくる うまれてくる あらわれてくる
もの。
衝動が
頭からでなく
体の中から出てくるように。
だからきっと大事なのは
上からあれこれコントロールすることではなくて
Be-ing。感じる事。
すでにある こと 起こっていること に まず気づくこと。
それを見つける事
それを意識しようとしてみること
「Don’t Think. Feel!」 考えるな 感じるんだ
(ブルース・リー 燃えよドラゴン)
そこから始まるんだと思います。
で、
わたしのなかの ある を感じてみました。
ある は
歌おうとしていたり
踊ろうとしていたり
グルーブしようとしていたり
シンクロしようとしていたり
していました。
そんな 何か でした。
「ワンダー」とは多分そのへんなんだと思います。
(ワンダコーチングはそれぞれの未知なるギフトを引き出すお手伝いですね。)
(以下、まだまだ未消化ですけれども徒然に m(_ _)m)
個人だけでなく社会も
関連して思うのは
今の社会では、能力ばかり が評価されて
存在自体でOK 生きてるだけでOK とはされていません。
生まれてきたときは それだけで祝福されますが
大人となればそうはいかない
もしかすると恋愛の時はそうかもしれない
家族の中ではそうかもしれない
しかし今、そこが崩壊・または商業化されてしまっている
社会として、存在そのものは評価していないと言えると思います。
(生きていることでお金をもらうと後ろめたさを感じてしまったり。)
(歴史的にどうかはここでは触れませんが、能力だけでの評価はしていなかった印象です。不具とかであったとしても、社会保障とかはなかっただろうけれども、そういうものとして認められ、受け入れられていた。無縁やアジールや入会や、さまざまなシェアとか間でなんとかしていた。)
現代は 能力がない ことの方をどうにかしよう
という執着があるように感じます。
これは 病い とも言えるのではないでしょうか?
(自分もそれにかかっていたわけですが)
そもそも、
その 能力で測る というモノサシ自体が問題ではないでしょうか?
人の価値は測れるものなのか?
まずこの居心地の悪さ・違和感に気づくこと ではないでしょうか?
そして
能力のあるなしや、能力のモノサシの問題は元より
存在自体に意味が認められていない
そんな社会の側が「問題」もとい「可能性」でもあること。
まずそれを違和感として感じなおしてみよう。
変容していく 叡智が 私たちには ある
とはいえ
がんばってきてもいる。
人権 という概念が生まれ
社会保障や、福祉も頑張ってきた。
それにまず感謝します。 m(_ _)m
しかし今、
新自由主義的な格差経済の中でそこが削り取られても行っている。
あるべき何か(世界人権宣言とか生命民主主義とか)に比して
まだ至っていない からと、
社会をジャッジして 社会を修正して頑張ろう
というのも大事なんだけれど、闘いや Doing に呑まれがちな私たちなので
それだけでは片手落ち。
一番大切なのは
上から社会をジャッジ・コントロールするというよりは
(それも目印とはしながら)
ボトムアップのごとく
違和感 を 感じて
そこから
自己組織化・自己治癒・おのずから進化 していくことと思います。
進化中ですから(生物初!人類初!)
社会もまた ベストを尽くしながら、今あるべくしてこうなのでしょう
学びながら 悩みながら 手放しながら 成長していく
この社会を身体的に感じていくこと
違和感 居心地の悪さ に気づいていくこと
そして 存在そのものでOK だということを あらわしていくこと
すでにある そういう在り方や動きに気づいていくこと。
つまり自分たち自身が、気づいた細胞として 内発的に
おのずから感じ、動いていくこと、あらわしていくこと
その中で 変容していく 叡智が 私たちには ある
拡がる集合的な感覚
それが拡がると
きっと 私たち 人類のさまざまな新たな感覚が拡がっていくのでしょう
地球的な感覚や
地球の声、痛み、叡智を聴ける感覚や
見えないものや聴こえないものや
集合的なものを感じる感覚や
繊細さんな感覚や
共感覚や
AIとかインターネットとつながっていく感覚や
ファントムセンスや
生態系とつながっていく感覚や
もっと宇宙的なコズミックな感覚
わたし自身が宇宙船地球号という感覚
わたしたちの大きなワンネスを体感できる力が
もっと必要とされ、花開いていくかもしれない
生命にとっても人類にとっても初めての事態!
戦争、核、エネルギー枯渇、ゴミ、環境破壊、生態系崩壊、気候変動…
現代の 不安や おそれは
技術が人の想像を離れるほど速くなっている とか
飢えより栄養過剰が問題なのは生命始まって以来だとか
地球大のサイズは初めてで想像を超えているとか
未来が見えない とか
複雑系でリアルタイムに動いていて予測不可能だとか
生命にとっても人類にとっても初めての事態!
認知の限界も関連していて 答えなんて わかりません
わからないことは 恐いんですよね
うまくいかなくて当たり前
だから一緒に全力を尽くそう!
新しい私たち
つまり この答えのまだわからない時代にあって
存在だけで価値
という初心に改めて戻ることで
私たちの可能性が 新しく発見される 発現される
それはもしかしたら
今は障がい者だったりマイノリティだったり
病人扱いとされているかもしれない
不登校、鬱 となっているかもしれない
新しい生命、種かもしれない
既知のものであっても、知られさざる寄与をしているかもしれない
雑用としてあつかわれていただけかもしれない
すでに滅ぼしてしまったかもしれない
失くして 亡くして しまったかもしれない
先住民こそまさにそんな存在だったのかもしれない
生ける環境そのものが先住民だったのだから
そのアイデンティティだったのだから(;;)
新しく活かされるかもしれない「いのち」たちは
そんな現代の認識限界を補ってくれる
新しい野生かもしれない
それは可能性
それをウェルカムすることで芽吹くかもしれない可能性
その好機が来ているのかもしれない
私たち自身の 不安や 恐れ や 痛み を
もっともっと互いに感じていくことで
それが 私たちの時代の 一体性・ワンネスにつながる
それは全方向の多次元でコズミックな
超地球身体・神経がつながるため
痛みも激しいかもしれない
わたしたち自身の拡張が伴う 蝶心身。
新しい可能性がそこに引っ張られてくる
そんな気がしています
存在だけでOK という価値観&感性は
その基本でもあるでしょう。
その時は
私たちの 身体もスピリットも文化もシステムも
もっとコズミック(宇宙的な)全体性を回復していっていることでしょう。
そんなワンダーでワイルドなトランスフォーメーションに関わっていきたいと思っています。